antipasto

LR 夕食前 (和巳)

 午後七時前になると、寮の食堂は満員になる。
 他の寮がどうかは知らないが、リカルドたちが暮らしているこの寮では朝食と夕食は全員揃って、ということが慣例となっている。
 寮長が言うには「家族なのだから、当たり前のことでしょう」ということらしい。
 リカルドはこの時間がとても好きだった。
 皆が揃って、というのが嬉しい。
 寮長の言葉どおり「家族」であることを感じられるから。
 そして、今日からは自分の同室となったルキーノも加わっている。
 慌しくて、なんだかいろいろあった一日だったけれど、ルキーノと自分たちの距離が少し縮まったようで、そのことがリカルドにとっては何よりも嬉しいことだった。
 本当に、夢みたいだ。
 幸せな気持ちで隣に座るルキーノへと視線を向けたリカルドだったが、そこで少年が困ったような表情になっていることに気づいた。
 どうしたんだろう。
「ルキーノ、どうしたの?」
 浮かんだ問いかけとそのまま素直に口にすると、相手からはぽつりと一言。
「……無理だ」
「え?」
 あまりにも短い一言だったので一瞬言葉の意味を掴み損ねたリカルドだったが、彼の視線の先にあるものを見てはっとした。
「もしかして、多い?」
 リカルドの言葉にルキーノがこくりとうなずいた。
 彼の目の前にあるのは、今日の夕食。
 育ち盛りの少年たちのことを考えてだろう、一人前よりも少し多めに盛り付けてある。これでも足りない人はおかわりも自由だ。
 そういえば、とリカルドは思い出す。
 朝食や校舎の食堂での昼食は自分で食べられるだけパンやサラダを載せるという形だったけれど、確かにルキーノの量は少なかった。
 ただ、それは緊張からなのかもしれないと思って、あとで聞こうと考えていたのに、すっかり忘れてしまっていた。
「なんだよ、待ちに待った夕食だっていうのに二人して暗い顔してさ」
 トレイを持って歩いてきたマルコがリカルドの向かいに座った。一つのテーブルに一学年六人で、マルコが座ったことで全員が揃ったことになる。
「うん、ルキーノにはちょっと量が多いみたいで」
 声を潜めてリカルドがそう告げると、ルキーノを除く友人四人は眉をひそめてしまった。その姿にルキーノがわずかに目を丸くする。
「あ、ええと、この寮では食べ残しってなるべくしないようにって、そういうことになってて」
「正確には「目の前にあるものは自分の責任で食べなさい」だな、リカルド。我が寮の伝統っていうよりもイレーネへの感謝を込めて」
「……感謝?」
 フェルナンドの説明を聞いたルキーノが、不思議そうな表情になる。
 無理もない、いきなりな話なのだから。
「イレーネっていうのは、ほら、料理を盛り付けてくれてるおばさ……いや、お姉さんって言わないと怒られるんだけどさ、残すっていうのがイレーネの怒りに触れるんだよな」
「あの……、イレーネは明るくていい人なんだけど、食べ物を粗末にしないでって……」
 マルコとその隣のジョルジョが相次いでルキーノへと説明をしてくれる。もっとも、だからといって目の前の状況が変わるわけではなく、少年はわずかに眉をひそめた。
 そんな表情も綺麗なんだな、と不意にリカルドはそんなことを思ってしまう。
 が、見とれている場合ではないと思い直す。
 ルキーノは今、困っている。それをどうにかして解決するのが友達としてしなくてはならないことだから。
「どのくらいなら食べられる?」
 リカルドの問いかけに対して「半分なら」と小さく息を吐きながら少年が答えた。
「半分って、少ないだろ。まあ、身体が大丈夫ならいいけどさ」
「ああ」
 マルコの問いかけに短く答えるルキーノの様子にためらいや迷いは感じられない。ということは、きっと、本当に大丈夫なのだろう。
 リカルドだけでなく友人たちもそう判断したのか、口を閉ざした。
 和やかな食事前の時間とは場違いな空気が彼らの周囲を取り巻く。
「仕方ないな」
 しばらくしてそうつぶやいたフェルナンドはちらりとルキーノを見てから、意味ありげな視線をリカルドたちへと向けた。少し身を乗り出すようにして顔を付き合わせたリカルドたちに対し、フェルナンドはさらに言葉を紡ぐ。
「明日からは半分にしてもらうように話すとして、とりあえず、今日は俺たちでなんとかしよう」
 フェルナンドの提案は妥当なもの、というよりも、他に選択肢がない。
 それはわかっているけれど、リカルドとしては少し緊張してしまう。友人たちを見ると、皆リカルドと同じように多少なりとも緊張しているのが見てとれた。
 そしてルキーノはといえば、リカルドたちの変化についていけないままでいた。そのことに気づいて、リカルドはそれとなく顔を彼に近づけながら小声で事情を説明する。
「食べられない分を他の人間が食べるっていうのも、よくないって言われてるんだ。だから、上級生や舎監の先生に見つからないようにしないと駄目なんだ」
 彼の言葉を聞いて、ルキーノがさっきよりも驚きをはっきりと表情に乗せた。そのことにリカルドはちょっと嬉しくなってしまう。
 彼のいろんな表情が見られたということが、嬉しい。
「ルキーノ、半分は食べられる?」
「たぶん」
「わかった。じゃあ、ルキーノはまずスープを半分食べてくれ。その間に俺が自分の分を食べ終えるから、見つからないように器を交換する」
「じゃあ、その次はサラダだね。それは僕が食べるよ」
「俺がパンを食べる」
 それまでずっと口を閉ざしていたロベルトが少年たちよりも一回り大きな身体をわずかに揺らせてうなずいた。
「ってことは、俺が肉ってことだな」
 マルコが気合十分なだけでなく、どこか楽しげなな顔でうなずいた。
「じゃ、じゃあ僕はミルクを……」
 一番小柄なジョルジョが頼りなげな口調でそう宣言して、それぞれの分担が終了。
 あまりひそひそと話しているのも周囲から不審がられるので、リカルドたちはいつもどおりに振舞おうと椅子に座り直した。
 もっとも、全ての行動が少しずつぎこちくなっているのだが、もちろん当人たちは気づいていない。
 とにかく、うまくやり通さなければ。
 リカルドは胸のうちでつぶやくと、隣に座るルキーノへと笑みを向けた。
「大丈夫だから。あと、明日の朝食の前にイレーネさんに話そうね、食事の量のこと。たぶん、少し悲しそうな顔をしてしまうと思うけれど、素直に話せばわかってくれる優しい人だから」
「……わかった」
 少年はこくりとうなずくと、少しためらいがちに自分と同じテーブルについている少年たちへと眼差しを向けた。
 そして、一言。
「ありがとう」
 周囲に聞こえないようにと思ったのか、そうではないのか。
 少年たちがかろうじて聞き取れる程度の声音だったけれど、はっきりとした口調。
 リカルドたちは一瞬息を止め、目の前の新しい仲間を見つめた。
 感謝の言葉。
 短い一言にこめられていたのは、偽りのない思い。
 それが感じられる。
 少年たちはそれぞれに彼の気持ちを受け止め、嬉しそうにうなずく。
 そして、リカルドはといえば、満面の笑みをルキーノへと向けた。
 友達なのだからこんなことは当たり前。
 困ったときには手を差し伸べる。
 家族だから。
 嬉しいときには分かち合う。
 友達だから。
 それに、ルキーノは同室の、特別な友達なのだから。
「気にしないで、僕たちは友達なんだから」
 そんなリカルドを見たルキーノはちらりとマルコたちへと視線を向け、戸惑いがちにうつむいてしまった。
 けれど、リカルドだけでなくマルコたちにももうわかっている。
 ルキーノのこの態度はそっけないのではなく、戸惑っているだけなのだということに。
 その証拠に、誰一人として不服そうな顔なんてしていない。
 そのことが嬉しくて、リカルドは笑顔のままでうなずいた。
 そして、食堂へと響く軽やかな鐘の音が、食事の前に行われる祈りの時間が来たことを告げたのだった。
【終】